今井大輔『ヒル』―家を持たずヒルのように寄生して暮らす者たち

『ヒル』読了。作者は、今井大輔先生。
主人公は、佐倉葉子。
物語は、通勤ラッシュに向かう人々とは、逆方向へ向かう葉子の姿から始まる。
アパートからOLが出かけるのを確認した葉子は、ドア越しに、電気メーターが回ってないか、生活音がしないか、今一度確かめ、持っていた合鍵で「おじゃまーしゅ」と、OL宅にするりと忍び込む。
OLが帰宅するまでの間、慣れた様子でシャワーを浴び、目覚ましをセットして惰眠を貪る。
眠りながら感じる人の気配。
「誰か…いた?」
気のせいかと思うが、目覚ましに手を伸ばした右手に書かれたメッセージ。
「キミもヒルなんだね サクラさん」
OL宅を出てカフェで、自分の存在を知る人物の出現と、ヒルについて思いを巡らす葉子。
ヒルとは、不当に手に入れた鍵をいくつも持ち、住人が不在の家を渡り歩いて生活する存在のこと。
知らずに、葉子はそんな存在になっていた。
そこに現れたのは、中学の同級生「月沼マコト」だった。右手のメッセージは月沼によるもの。彼もまたヒルだ。
葉子がヒルになったきっかけの一つは、失恋。
もう一つは、夜行バス事故の乗客名簿に自分の名前が載っていたことで、死んでいないのに死んだことにされたこと。
父親から虐待を受けていた葉子は、一度死んだ。何もかもどうでもよくなり、家に戻らないことを決める。
ある夜、元カレの家の家に忍び込んで、中を物色している最中に、中年のヒルと思しき男が入ってくる。
恐怖を覚え、とっさに隠れる葉子。
男の正体を探るべく、葉子は、部屋を出た男の後をつけるが、男は人気の少ない中学校に消える。
真意が掴めず、更に後を追う葉子だったが、待ち伏せしていた男に殴られ捕まってしまう。
ここから物語は、サスペンスの様相を帯びていく。
男の手には包丁が握られている。
「私を殺すの」という問いに、男は「そらそーでしょ」。
なんとか生き延びるために、葉子はゲームをしようと持ち掛ける。後ろ手に縛られたまま、夜の学校を男から逃げるというゲーム。
逃げる葉子。
そこに、月沼が現れる。
葉子がどうなるのか。中学時代は気の弱い、いじめられっ子だった月沼が、人殺しも厭わないヒルに変貌したいきさつ。月沼のヒル仲間。そして、葉子と月沼の関わり方については、ぜひ本編で確かめてほしいと思う。
ちょっと事情があって家に帰れず、ネカフェに泊まったことがあった。
ナイトパック料金を使って早朝ネカフェを出たのだが、ショップやカフェなどが開いてなくて、人と会う時間まで、時間を潰すのに苦労した覚えがある。
街中で時間を潰すのは、骨が折れる。
カフェや飲食店では休めるが、お金がかかる。そう長居ができるわけでもない。座ることはできるが、横にはなれない。
急速に貧困化が進んだ現代。貧困によるネットカフェ難民やホームレス。彼らはもちろんヒルではない。
ただ、関係性が切れて、居場所からはじき出された人間が、モラルや社会性を手放ししたとき、他人の部屋で他人のものを使って生活する「ヒル」にならないとは限らない。
そういう意味で、この設定は、リアルだ。
注意深く観察していれば、その人物の行動パターンを掴むことは不可能ではない。
ゴミ出しや洗濯を干しているほんの数分間の間に、玄関に置かれた鍵を盗み、スペアを作る。
オリジナルの鍵は、部屋のどこかに落としておけばいい。
よほど几帳面な人でなければ、化粧品やシャンプー、冷蔵庫に入った牛乳や食べ物なんかが減っていても、あまり気づかないのではなかろうか。あれっと一瞬、違和感を覚えても、気のせいと、自分を納得させてしまうような気がする。
私が会社に行っている間に、見知らぬ誰かが部屋に入って、私のベッドを使って眠る。
そんな怖さがこのマンガにはある。
黒の使い方がうまくて、しんとした夜の学校や街並みが秀逸だ。
アングルの切り取り方も映画を見てるみたいで、目を離せなかった。
アンダーグラウンドの世界観を、たっぷり堪能させてくれる良作。